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<p>【探訪&動画】「稲むらの火」梧陵さんの教え今も 和歌山「広村堤防」</p><p>【探訪&動画】「稲むらの火」梧陵さんの教え今も 和歌山「広村堤防」 「稲むらの火の館」の崎山光一館長は「大事なことは地震が起きたらすぐ高台に避難すること。梧陵さんの教えを心に留めておいてほしい」と呼びかける。</p><p>松に覆われた堤防が集落を海から守るように延びている。陽光を受けた木々がその影を地面に落としていた。</p><p>和歌山県西部、紀伊水道に面する広川町(旧広村などが合併)。安政元(1854)年11月5日、安政南海地震の際に村の実業家、浜口梧陵(ごりょう)が闇夜の中で稲(いな)むら(刈り取ったばかりの稲の束)に火をともして住民を避難させ、津波から多くの命を救った地だ。この逸話は物語「稲むらの火」として戦前から戦後にかけて小学校の教科書にも掲載された。 広村堤防に設けられた防潮扉。町内では「津波に注意」や「高台に避難」など、防災意識の高さを感じさせる看板やスローガンを多く見かける =和歌山県広川町(川口良介撮影) 地震の後、梧陵は私財を投じ、堤防を造ることを計画する。再度の津波に備えるとともに、荒廃した村で困窮する人々へ仕事をつくり出す目的もあった。安政5年、約4年の工事を終え、高さ約5メートル、長さ約600メートルの「広村堤防」が完成した。 昭和21年の南海地震では津波によって堤防の外側では死者が出たが、堤防内に被害はなかったという。死してなお、梧陵が村を守ったのだ。 終戦直後、尋常小学校の教科書に掲載された「稲むらの火」。進駐軍の検閲を受け、他のページのほとんどは黒く塗り潰されたが、この物語は伝えられるべき教訓として残された =和歌山県広川町(川口良介撮影) 阪神大震災から28年がたち、東日本大震災からまもなく12年を迎える。時の流れはどうしても防災意識を薄れさせてしまう。 町の防災教育施設「稲むらの火の館」の崎山光一館長(73)は「大事なことは地震が起きたらすぐ高台に避難すること。梧陵さんの教えを心に留めておいてほしい」と呼びかける。 国連は平成27年、「稲むらの火」の故事にちなみ、11月5日を「世界津波の日」に制定した。 梧陵が灯(とも)した防災と復興の明かりは時代と国境を超えて今も人々を導いている。</p>