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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権を戦った『ポルシェ962C』です。

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 1982年にスタートしたグループCカーカテゴリーにおいて、先代ポルシェ956とともに同カテゴリーの代名詞的存在として語られることも多いポルシェ962C。

 このポルシェ962CはグループCカーとして一線を退いた後、1994年にル・マン24時間にダウアー・ポルシェ962LMという“GTカー”として参戦していたことは、以前にもこの連載でお伝えした。

 だが、この事例以外にもGTカーとして同年、日本でもポルシェ962Cは活用されていた。それが、全日本GT選手権(JGTC)への挑戦だった。

 ポルシェ962CでJGTC参戦を企てたのは、1980年代に全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)でもポルシェ962Cを走らせていたチーム・タイサン。このほかにもフェラーリF40を持ち込むなど、スカイラインGT-R勢に対して強力な外国車たちで対抗しようとしていた。

 今日のスーパーGTの様相を見ると、スカイラインGT-RのなかにスポーツプロトタイプカーであったグループCカーが混ざるなど、およそイメージがつかないことだろう。

 もちろんこの当時も、ポルシェ962Cの参戦については物議を醸した。だが、きちんとナンバーの取れるクルマであることをタイサンの代表である千葉泰常氏がJAFへ証明し、説得したことで、JGTC参戦が実現したのである。

 そんなポルシェ962Cだが、グループCカーそのままのスペックでJGTCにエントリーできたわけではない。車両自体は、タイサンが所有していたグループCカーがベースとなっていたが、レギュレーションで定められた最低重量が1200kgだったため、それに対応するべくウエイト搭載を余儀なくされていた。かつてのグループCカーの最低重量が850kgだったから、300kg以上も車重が重くなってしまっていた。

 さらに、これも規定によってなのだが、リヤのオーバーハングが詰められ全長を短縮。エンジンもエアリストリクターが装着されるなど、本来より大幅に性能が削がれた状態で開幕戦に挑むことになった。

 車重が大幅に重くなったことでマシンバランスが崩れてしまったポルシェ962Cだったが、富士スピードウェイで行われた開幕戦では、見事ポールポジションを獲得。

 レースではエアリストリクター装着に起因するターボトラブルが予選に続いて発生。リタイアを喫してしまったが、さすがという速さをいきなり見せつけた。

 その後、ポルシェ962Cはタイトコーナーの連続する仙台ハイランドで開催された第2戦をスキップすると、この年2度目となる富士スピードウェイで開催された第3戦で再び姿を現した。

 このレースでは、ポルシェ962Cをアンソニー・リードと開幕戦でステアリングを握った茂木和男に代わり、近藤真彦がステアリングを握った。

 ポルシェ962Cは、予選で2位につけた同じタイサンのF40を2.5秒も引き離すタイムをマークしてポールポジションを獲得。レースではスタートこそ、スタンディングスタートを想定していないギヤセットのため出遅れてしまったが(1994年のJGTCはローリングではなく、スタンディングスタートだった)、その後、スタートドライバーだったリードの追い上げでトップに立つと、リードからバトンを受け取った近藤もトップの座を守り切りそのままチェッカーを受けた。

 この勝利は、ポルシェ962Cにとって最初で最後のJGTCでの優勝であったとともに、近藤にとってはレースデビュー以来初の全日本選手権戦勝利を達成した瞬間だった。

 その後、ポルシェ962CはスポーツランドSUGOで行われた第4戦の参戦を見送り、MINEサーキットが舞台の最終戦へとエントリー。ここで3位表彰台を獲得すると、この年限りで、ポルシェ962CによるJGTCへの参戦は終了となった。

 わずか1年のみとなったまさかのグループCカーによる参戦劇だったが、“さすがCカー”という実力を発揮し、今も語り草となる鮮烈な印象をファンに植え付けたのだった。

1995年の全日本GT選手権最終戦MINEを戦ったタイサン スターカード 962C。
1995年の全日本GT選手権最終戦MINEを戦ったタイサン スターカード 962C。