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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループCカーレースを戦った『トヨタ92C-V』です。

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 1992年は、グループCカテゴリーが誕生してから10年という節目の年であった。この年、そのグループCカーで争われるスポーツカー世界選手権(SWC)は前年より本格施行された3.5リッターNAエンジンを搭載する、いわゆる新規定Cカーがメインとなって争われていた。

 といっても、そのメインとなった新規定Cカーで、1992年のSWCに参戦していた自動車メーカー系のエントラントは、プジョーとトヨタの二社のみ。1991年を最後にジャガーとメルセデスのふたつのメーカーが撤退したことなどによって、グループCというカテゴリー自体が衰退の一途を辿っていたときであった。

 そのような様相のなか、日本でも全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)というグループCの選手権が開催されていたが、SWCとは少し様相が異なっていた。

 新規定Cカーのクラスとターボエンジンなどを積む旧規定グループCカーのクラスが設けられ、ふたつの部門で選手権が争われていたのである。

 しかも、なかなかトヨタ、ニッサン、マツダの新規定車導入への足並みが揃わなかったこともあり、結果的にJSPCラストイヤーとなった1992年も日本のグループC選手権は旧規定車がメインとなっていたのだ。

 この年のJSPC、“旧規定車”クラスをリードしていたのは、R91CPを改良したR92CPで戦っていたニッサンだったのだが、そのライバルとして立ちはだかったのがトヨタの92C-Vだった。

 トヨタは1991年、91C-Vを開幕戦から導入し、シーズン途中にも大改良を施して、ニッサンの2年連続タイトル獲得を脅かすほどの強さを見せていた。だが、1992年は新規定車のTS010へと開発をより注力した影響もあり、トヨタ系の各チームが独自に91C-Vをベースに改良を施したマシン=92C-VでJSPCへと参戦する状況だった。

 その92C-Vを使うチームのなかでも大きな独自モディファイを施していたのがトムスだった。トムスは、まず92C-Vのモノコックをオリジナルで製作。さらにそれに伴ってサスペンションもトムスで開発したものへと変更したのだ。加えてボディカウルもフロントのラジエターエアアウトレットが特徴的な独自デザインのものへと改良するなど、大幅な軽量化に成功した“通常品”とは、まったく別の“トムスバージョン”をJSPC専用に生み出したのだった。

 この“トムスバージョン”は、1992年のシーズン途中より投入され、確実にポテンシャルはアップしていたのだが、結果的にはニッサンR92CPの連勝を止めるには至らなかった。そしてこの年をもって、JSPC自体が終焉を迎えることになってしまう。

 この頃のトヨタのグループCカーというと、SWCやル・マン24時間レースでの活躍もあり、TS010ばかりに目が向けられがちだ。しかし、まだまだターボCカーであるC-Vシリーズもチームの努力によって、改良が重ねられていたことを忘れてはならない。

1992年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権第5戦全日本富士1000kmレースで2位フィニッシュを果たした関谷正徳、ピエール-アンリ・ラファネル組のエッソ・トヨタ92C-V。
1992年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権第5戦全日本富士1000kmレースで2位フィニッシュを果たした関谷正徳、ピエール-アンリ・ラファネル組のエッソ・トヨタ92C-V。