F1はドライバーズ選手権の意味合いが強いが、参加チームが『コンストラクター』となって独自にマシンを開発して参戦しなければならない。ここが他のカテゴリーと大きく違う。F1はドライバーの戦いであると同時に技術の戦いでもある所以だ。
ただ、これがF1をある意味“特異”なカテゴリーにしてしまっているとも言える。資金力と技術力が優れたチームが必然的に高いポテンシャルのマシンを生み出しやすい傾向にある、一種の『パワーバランスの偏り』だ。2010年以降のドライバーズチャンピオン輩出チームを見れば、レッドブルとメルセデスの2チームだけなのだからそれは顕著に現れている。(2010年からレッドブルの4連覇、2014年からメルセデスの8連覇、2021年から再びレッドブルが連覇中……)。これより前の時代を見ると、長くフェラーリ、マクラーレン、ウイリアムズ以外にチャンスはなかった(たまに英・エンストンに拠点を置くチームが割り込むこともあったが)。
今、挙げたチーム以外の中堅どころが、1レースに限ってのラッキーな勝利を拾うことは5年に1度くらいの割合でなら起こり得るが、シーズンのタイトルとなると話は別。これを手にできるのは本当の力を持ったチームに限られる。それが自らがコンストラクターとして参加しなければならないF1特有の偏ったパワーバランスを生み出していることにもつながるのだ。
F1にジャイアントキリングはあり得ない。しかし──。
日本人の感覚としてわかりやすい『鈴鹿元年』の1987年以降のF1を振り返った場合、1例だけそれが存在する。“形式上”デビュー1年目の新参ブラウンGPが初陣を制し、そのままワールドタイトルまで獲得してしまった、まさに事件だった。
時代の移り変わりとは面白く、『ブラウンGPの変』が起きたのが先ほど挙げた『3強+1』の時代と『現2強』時代のちょうど間の2009年。それ以前とそれ以後のF1界のパワーバランスが大きく変わった考えるならば、この2009年に起きたブラウンGPによる下剋上は、F1の歴史そのものを大きく変えたと言えなくもない。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.42では、F1の歴史を変えた1台、ブラウンBGP001を特集する。
このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.42 ブラウンBGP001』に掲載されるジェンソン・バトンのインタビューを特別公開。 ホンダ第三期F1活動終了の発表から、ブラウンGPの立ち上げ、7戦6勝と無敵の強さを誇ったシーズン前半、そして、悲願のワールドチャンピオン、まさに波瀾万丈を体現した1年を自ら振り返っている。それがいかに険しい道程だったことか……。
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ジェンソン・バトンが手にした2009年のワールドチャンピオンの称号は、ジェットコースターを彷彿させる波乱万丈のシーズンを経て成し遂げられたものだった。F1ドライバーの並外れた精神力をもってしても、恐慌を抱きかねない激しいアップダウン。その最初の“落下”は、開幕まで4カ月弱というタイミングでバトンを襲った寝耳に水の、ホンダが2008年限りでF1から撤退するという通達であった。時期が時期だけに有力チームのシートはすでに埋まっていて、最悪の場合はチームメイトのルーベンス・バリチェロともども所属チームを失いかねない。妥協して弱小チームに移籍するか、さもなければ1年間の浪人生活を覚悟して他日を期すか……。
しかし、窮地に陥ったバトンの行く手に一条の光が射した。ホンダがロス・ブラウンを支援するかたちで、わずか1ポンドで株式を売却するなどチーム救済に乗り出したのだ。マクラーレンのマーティン・ウイットマーシュがこれに呼応し、メルセデスエンジン供給の話もトントン拍子にまとまった。ここから始まった新生ブラウンGPの快進撃は、今や記憶に残るF1史の1ページと言って差し支えないだろう。
あれから14年の歳月を経て、バトンが当時の思い出を赤裸々に語ってくれた。ホンダの撤退により自分はもちろん、ともに働く仲間たちがあわや失業の危機に直面したこと。そして、その後の急展開でチームが存続できたばかりか、予想をはるかに超えるマシンの仕上がりに大喜びしたこと。そして、ブラウンBGP001はバルセロナ合同テスト初日からトップタイムを記録し、シーズン序盤は破竹の勢いで勝ち進んだものの、資金不足により開発が頓挫し、後半はジリ貧の戦いを余儀なくされたこと。こうした経緯を経て、F1史に類例のない特異な経緯で誕生したワンオフチームはかろうじてリードを守り切り、薄氷の勝利を手にしたのである。
■移籍するつもりはなかった
──ホンダのF1撤退を最初に知ったのはどんなタイミングでしたか。確か2008年12月初旬に起こった出来事でしたが、そのニュースを聞いた直後のあなたの反応と合わせて教えてください。
ジェンソン・バトン(以下、JB):他のチームメンバーが知ったのと同じ経路さ。だから、ショックの度合いもみんなと似たようなものだ。最初の2時間くらいはもう辛いばかりで、何も考えられなかった。でもしばらくして、落ち込んでる場合じゃないと思い直したんだ。自分自身を信じ、何事も前向きに考えなければならない。そうやってチーム一丸の姿勢を見せていれば、どこかの誰かが手を差し伸べてくれないとも限らないからね。諦めて何もせずにいたら、絶対前には進めない。すぐさま、みんなで集まってチームを救う方法を相談したというわけさ。そんな感じだったから、他チームに移籍するなんて考えもしなかったよ。
──その直後にヘレスで行われた6チーム合同テストに、突然あなたが姿を現したのを覚えています。どういう目的で行ったのですか。
JB:自分は今後もレースを続けるつもりでいる、ということをF1関係者全員に知ってほしかった。そのためにはヘレスに出向いて、みんなに自分の姿を見てもらうのが一番だと考えたのさ。たった1日だけど、チームスタッフやジャーナリスト、そのほか出会う人すべてに声をかけてやる気をアピールし、トンボ返りで帰ったんだ。ロス(チーム代表)と一緒にやらなきゃならないことがあったしね。ニック(フライ/マネージングディレクター)をはじめ、チームの主立った顔ぶれはすべてそんな感じで、各々がチームの生き残りに向けて動き出していたんだ。
──当時、トロロッソと話し合いを持ったという噂がありました。2009年のレギュラーシートはセバスチャン・ブエミが確定で、もうひとつはまだ空いていたからです。どこまで具体的な話になっていたのですか。
JB:確かにトロロッソに移籍しようと思えばできたけど、正直に言って選択肢のうちには入ってなかった。まだ自分には証明しなければいけないことがあると感じていたからね。たった1勝しか挙げていないのに、トロロッソに移籍するわけにはいかないだろう。だから、ブラウンGPという選択肢の方が……まだ名前さえ決まっていなかったけど……よほどいい選択肢に思えたんだ。
■文句なしのグッドニュース
──その後、ホンダがブラウンやフライと話し合い、救済プロジェクトを立ち上げます。チーム存続のメドが立ったことについては、どう感じましたか。
JB:文句なしのグッドニュースさ。しかし、まったくの予想外というわけでもなかった。ロスから逐一、報告を受けていたからね。いろいろあったけれども、裏では2009年向けの開発がずっと続けられていた。風洞の実験結果もかなりいい数値が出ていたので、シャシーが悪いはずはないという確信があったんだ。みんなも知っていると思うけど、ホンダは資金のすべてを開発に注ぎ込んでしまうくらい熱量のある会社だ。そういう会社が2008年は、ほとんどマシンの開発を行わなかった。なぜなら翌年から規則改定で、マシンが一新されると分かっていたからだ。だから、本腰を入れた開発は行えなかったというわけさ。
その分、2009年のマシン開発にリソースの大部分を注いでいたのに、その後ホンダがF1を撤退することが急きょ決まった。当時はすぐに事情が飲み込めなかったけど、翌年にBMW、トヨタが、翌々年にはルノーが立て続けにF1から撤退して、そこでようやくリーマンショックによる世界的な金融恐慌の影響で、自動車業界全体が危機的な状況に陥っていることが分かった。今、名前を挙げた自動車メーカーのなかでは、ホンダが一番規模が小さい。だから受けるダメージも、それだけ大きかったんだ。それゆえに、真っ先に対応する必要があったということを、そのときに初めて理解した。
──メルセデスとエンジン契約を締結してから、ホンダエンジン用に作ったシャシーをどうやって改良して搭載するのかで、かなり苦労したと聞いています。しかし、その甲斐もあって最初の合同テストでは素晴らしいタイムを記録しました。何が一番印象に残っていますか。
JB:シルバーストンのスクール用コースで、最初のテスト走行をした。そのときに印象的だったのはマシンのフィーリングではなく、タイヤの温度が分からなかったこと、そしてマシンに何の問題もなかったことだ。これは完成したばかりのマシンとしては、珍しいことなんだ。懸念材料としては、このマシンが一体どれだけ速いのか、誰にも分からなかったことが挙げられる。マシンがどう動くのか、いろいろシミュレーションしながらやっていたけど、最後までそれは謎のままだった。
そして、バルセロナ合同テストに参加したところ、最初の走行でどのチームよりも0.6秒も速かった。でも、何も知らない僕はガレージに戻ると、『マシンのバランスが悪い。高速コーナーはこうすべきだし、低速コーナーはこうした方がいい』と伝えたんだ。そうしたらショブ(当時のバトンのレースエンジニアであるアンドリュー・ショブリン)がコクピットに顔を突っ込んできて、『オマエは誰よりも0.6秒も速いぞ!』と言ってきた。信じられなかったよ。さらにバランスの悪いところを直して走ったら、最終的には1.2秒差をつけてトップタイムだったんだ。でも、僕らとしても手の内を知られたら困るので、その後は燃料を多めに積んで走るようにした。それでもライバルに負けないくらいのタイムを出せていたからね。ただ、この時点ではライバルチームからあまり警戒されていなかったと思う。
■ダブルディフューザーの抜け穴を見つけたのはホンダの日本人エンジニア
■ピットワークの賜物
──開幕戦オーストラリアGPで見事に優勝を挙げると、第2戦マレーシアGPも制し2連勝。雨で短縮されたレースでしたが、その時点で最速マシンを手にしていることが明らかになりました。
JB:メルボルンの週末は金曜のフリー走行から好調だったけれども、期待していたほどではなかった。それが土曜の予選では断トツの速さで、ライバルを蹴散らすことができた。でも、レースでは決して楽勝という感じではなく、セブ(セバスチャン・ベッテル)と(ロバート)クビカが残り2周で接触したことが大きかった。だから、簡単に勝てたわけではないんだ。そもそも僕は、(マックス)フェルスタッペンが2022年シーズンで見せていたようなぶっちぎりの勝ち方というものは、ほとんど経験したことがない。どのレースでも着実にラップを重ねていたら、いつの間にか勝っていたという感じに近いんだ。
チームがミスを犯さず、メカニックたちが信じられないような働きを見せてくれたおかげだよ。冬の間にピットストップの練習ができなかったことを考えると、まさに奇跡に近い出来事だと思う。特に、シーズン前半はほぼノーミスだったんじゃないかな。対するライバルチームは、どこもミスしていたと記憶している。だから、僕たちは必ずしも最速というわけではなかったけれども、かなり高確率で勝ち続けることができて、シーズン序盤に大量のリードを築くことができたんだ。
──ダブルディフューザーを装着していたことは、シーズン序盤の戦いでどれくらい優位に働いていたと思いますか。
JB:その件については、もう嫌というほど語られているよね。でも、ダブルディフューザーの抜け穴を見つけたのは、実はホンダの日本人エンジニアだったんだ。でも、ウイリアムズやトヨタもダブルディフューザーを採用していたから、思いついたのは彼だけではないことは確かだ。ひとつ言えることは、ダブルディフューザーにみんな気を取られすぎだったということだ。見かけに惑わされたと言えばいいのかな。BGP001はマシンパッケージとしてもよくできていて、ダブルディフューザーはその一部を成していたから、とにかく効果てきめんだった。
■タイヤの温度管理に苦しむ
──第7戦トルコGPを終えた時点であなたは6勝を記録し、チームメイトのルーベンス・バリチェロに26点差をつけてドライバーズ選手権をリードしていました。ランキング3位のベッテルとは32点差です。当時の優勝は10ポイントだったので、大量リードと言ってもいいシーズンの展開でしたが、その一方でチームの資金が底を突き、もうこれ以上の開発が難しいという状況に陥っていました。あなたとチームはこうしたハンデをどうやって克服しようとしていたのですか。
JB:そう、文字どおり資金は全然なかったんだ。トルコへは格安航空のイージージェットで行ったくらいだからね。そして、トルコGPでの優勝がシーズン最後の勝利となってしまった。素晴らしいレースだったけどね。フィニッシュラインを超えた時に無線で思わず、『みんなのおかげでモンスターマシンに変身したぞ!』と叫んでいたよ(笑)。
ただ、その後は完璧だったマシンが気がつくと、坂を転げ落ちるように戦闘力を失っていってしまった。翌戦のイギリスGPでは予選6位につけるのがやっとだったからね。もともと足りなかったマシンの開発予算がついに底を突き、タイヤの性能をうまく使いこなせないという問題に直面した。マシンに装着されるパーツはだいたい6、7レースで新しいものに切り替わり、その開発には最低でも3カ月は必要だ。ところが、僕らは開発はおろか資金不足で、次のレースに行けるかどうかも分からないような状況だったんだ。
でも、あとになってからロスがシーズン中の開発に投資しなかったのは、翌シーズンに向けてできる限り開発資金を取っておきたかったからだということが分かった。チームを継続するためには仕方なかったんだろう。さらに大きな問題としては、必要不可欠なパーツを作るにしても風洞なしでやらなければならなかったということだ。聞けば、かれこれ3カ月も風洞施設を利用していなかったらしい。それでは勝てるわけがないと思ったよ。だから、序盤に築いた大量のリードがあって本当にラッキーだった。そうでなければ、タイトル獲得なんて絶対にできなかっただろう。
──主に、どんな部分で苦しんでいたのですか。
JB:僕にとっての問題は、タイヤの温度管理だった。シルバーストンやバレンシア、スパ・フランコルシャンのようなサーキットでは、タイヤを適正な温度まで上げられなかったんだ。僕はスムーズなドライビングスタイルが信条で、それはすべてのキャリアを通じて言えることだ。必要に応じてアグレッシブにドライブもしたけど、基本的には自分には合わないと感じていた。だから、タイヤの温度を上げられない状況でドライビングするのは厳しかったよ。
■ベストレースはモナコGP
──あなたはトルコGP以降、未勝利に終わりましたが、チームメイトのバリチェロはヨーロッパGPとイタリアGPで優勝を挙げ、ベッテルも2勝を挙げてポイント差を縮めてきていました。どこかで逆転されるのでは……と不安にはなりませんでしたか。
JB:レッドブルが大躍進を遂げ、状況はますます困難になっていった。シンガポールGPで『僕たちはいったい何をやっているんだ?』と声を荒げてしまったことを思い出すよ。最初の7レースの勢いが、シーズン後半ではまったく逆になってしまっている。何ひとつとしてうまくいかないものだから、思わず無線で『まさかもう諦めてるんじゃないだろうね』と言ったこともあった。
──しかし、その苦しい状況を乗り越え、ブラジルGPで初のワールドタイトルを獲得しました。
JB:その前戦の日本GPで優勝するなどセブは好調だったが、僕は絶不調。しかもブラジルGPの予選では、雨のせいでここぞというタイミングでアタックできず、肝心の場面でタイヤチョイスも間違えてしまった。一方、ルーベンスの作戦は完璧に決まって、ポールポジションを獲得していたんだ。ただ、驚いたことにレッドブルも似たようなミスを犯していて、なんとセブが予選16番手に沈んでいた。あれには驚いたよ。レースを見ている人たちからしたら、これほど面白い展開はなかったんじゃないかな。もし、2009年シーズンを元に映画化するとしたら、まさにうってつけのプロットだろう。最悪の不幸に見舞われつつも、不死鳥のように甦り、最後に栄光を掴みかけたところで、絶体絶命の危機が訪れる……という展開だからね。
レースでは僕もセブもずいぶんポジションを上げたが、彼の方はその挽回が十分ではなく、逆転タイトル獲得の望みが潰えてしまった。僕がフィニッシュラインを超えた瞬間、ワールドチャンピオンが確定したんだ。そのときに押し寄せてきた感情は、何とも言いがたいものだった。10カ月前は誰ひとりとして、僕らの勝利を予想した者はいなかった。そもそもチームの命運さえ定かではなく、シートがなくてもおかしくない状況だったんだからね。そういった状況からの王座獲得だから、感慨もひとしおだった。
──この年のベストレースを挙げるとしたら、どこになりますか。
JB:どの勝利も素晴らしいが、モナコGPの優勝はやはり特別だ。予選では好調だったキミ(ライコネン)を僅差で退けて、僕がポールポジションを獲得した。レースでは3番グリッドにつけたルーベンスがスタートダッシュを決めてキミをかわし、2番手に浮上したのも心強かった。どんなに条件が良くてもモナコGPで勝つのは簡単ではないが、僕らは抜群のチームワークを発揮した。ノーミスでレースを進め、ピットストップも完璧にこなして1‐2フィニッシュを達成したんだ。チームにとっても、素晴らしい勝利だったよ。
でもうれしさのあまり、実はレース後に失敗を犯しているんだ。すっかり舞い上がっていつもどおりの場所にマシンを停めたら、上位3台はロイヤルボックスの前に行くんだと注意された。だから、慌ててマシンを降りて走ったよ。ルーベンスとキミはすでにそこにいて、アルベール大公と並んで僕を待っていた。ふたりはどこにマシンを停めるのか知っていたんだ(笑)。今となっては、それも良い思い出だけどね。
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『GP Car Story Vol.42 ブラウンBGP001』では、今回お届けしたバトンのインタビュー以外にも見どころ満載。このチームを語るうえでバトンと同じく絶対に外せないのが、チーム名にもなっているロス・ブラウン。そのロングインタビューは、10000字の超大作。
そして、何と言ってもダブルディフューザーを始めとした空力開発がブラウンGPの成功に直結したことは間違いなく、そこにホンダがしっかり関わっていた事実を、現在も同社に在籍する真塩享氏が証言。さらにブラウンに属してた日本人空力技術者の田中俊雄氏による、チーム側から見た空力開発もあり、双方の証言を比較できるのはおそらく世界で今号だけの特集だけなので必読だ。
ブラウンは現メルセデスの前身チームゆえに今も当時のスタッフが多く在籍しており、空力担当だったジョン・オーウェン、バトンのレースエンジニアだったアンドリュー・ショブリン、戦略エンジニアのジェームス・ボウルズ、チームマネジャーだったロン・メドウズといったキーマンたちのインタビューも掲載。それぞれの立場でいかにしてブラウンGP立ち上げに関わり、そして苦しいシーズンを戦い抜いたか、きっとあなたが知らなかったエピソードばかりのはず。
もちろん、バトンの僚友ルーベンス・バリチェロや、バトンと最後までタイトル争いを繰り広げたセバスチャン・ベッテルのインタビューのチェックもお忘れなく。『GP Car Story Vol.42 ブラウンBGP001』は現在発売中。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12623)まで。