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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1996年の全日本GT選手権を戦った『ADVAN BP NSX』です。

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 現在のスーパーGTにおいて、ニッサンのフェアレディZ、トヨタのGRスープラとともにGT500クラスを支え、しのぎを削るホンダNSX。そんなNSXは、全日本GT選手権(JGTC)を含め、計23シーズンもの間、ホンダのGT500クラス主力マシンとして戦い続けている。

 NSXのJGTCへの参戦は1996年よりスタートしているのだが、その記念すべき初年度は1台のみのエントリーであった。その1台が今回紹介する『ADVAN BP NSX』だ。

 このNSXを走らせたのは、現在もSTANLEY NSX-GTでGT500クラスを戦っているチームクニミツ。2022年の3月に逝去された高橋国光さんのチームである。

 そもそもチームクニミツは“国さん”が「こんないいクルマがレースに出ていないのはおかしい」と考え、NSXでのレース参戦をホンダへと提案していた。そして1994年からNSXでル・マン24時間レースへの挑戦を実現させているが、それと同時にJGTCへの参戦活動も行う予定だった。

 しかし、さまざまな事情からそれはすぐには叶わなかった。1994、1995年とポルシェを使いJGTCへと挑んでいたが、1996年になるとチームクニミツは、待ち望んだNSXでのJGTC参戦をスタートさせる。

 チームクニミツがJGTCへと持ち込んだNSXは、イギリスのTCPが開発したル・マン24時間レースなどの規定に適合するLM-GT2仕様の車両で、1995年のモンツァテストで使用したテスト車両をJGTC向けに流用したマシンだった。

 1996年の開幕戦の舞台、鈴鹿サーキットへと姿を現したチームクニミツのNSXは、高橋国光と土屋圭市という師弟コンビがステアリングを握り、戦いをスタートさせた。

 LM-GT2仕様だったNSXは、当時の規定で最低重量が1050kgと定められていたため、ライバルであるスカイラインGT-Rやトヨタ・スープラよりも車重が軽く、コーナリングでは対抗できた。しかし3.0リッターの自然吸気エンジンであったこともあり、パワー不足が露呈し苦戦を強いられてしまう。

 開幕戦ではトラブルのため完走とはならず。第2戦の富士スピードウェイでは直線の長いコースながら8位入賞と健闘したが、トップグループからは大きく水を開けられてしまっていた。

 仙台ハイランドで開催された第3戦では同じくTCP製作のLM-GT2仕様であるものの、右ハンドルとなるなどモディファイされた新車がデビューしたがそれでも戦況は改善しなかった。

 富士スピードウェイでの第4戦では、この年の最上位となる7位に入賞、第5戦のスポーツランドSUGOでも10位とポイントを重ねたが、高橋、土屋の奮闘も実らず、表彰台獲得も叶わないまま、1996年のシーズンを終えることになってしまった。

 この1996年、NSXでのJGTC参戦はチームクニミツが主体となったもので、ホンダは積極的にJGTCでの活動を行っていたわけではなかった。

 しかし、1996年の最終戦であったMINEサーキットでの1戦を視察。そしてこの視察で目の当たりにした状況に危機感を覚え、ホンダはエンジンを無限、車体を童夢に開発させ、それをホンダが支援するという無限×童夢プロジェクトの立ち上げを決めた。それから今日に至る本格的なホンダによるJGTCにおける活動がスタートしていくのだ。

 それがスタートしたのも“国さん”の率いたチームクニミツが挑戦したこの1996年があってこそ。戦績こそ残らなかったが『ADVAN BP NSX』は、偉大なるファーストステップの1台なのだ。

1996年の全日本GT選手権第4戦富士を戦ったADVAN BP NSX。第3戦仙台ハイランドから導入された新車は右ハンドルとなるなど、さまざまな点がモディファイされていた。
1996年の全日本GT選手権第4戦富士を戦ったADVAN BP NSX。第3戦仙台ハイランドから導入された新車は右ハンドルとなるなど、さまざまな点がモディファイされていた。