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16歳のときに映画『茶の味』(石井克人監督)で俳優デビューし、映画『亡国のイージス』(阪本順治監督)、映画『色即ぜねれいしょん』(田口トモロヲ監督)、『天皇の料理番』(TBS系)、『真犯人』(WOWOW)など多くの映画、ドラマに出演している森岡龍さん。

2016年に公開された映画『エミアビのはじまりとはじまり』(渡辺謙作監督)で前野朋哉さんと演じた漫才コンビ「エミアビ」として「M-1グランプリ」に出場。

大学在学中に「ぴあフィルムフェスティバル」に入選。映画監督としても活動し、脚本・編集・監督を務めた短編映画『北風だったり、太陽だったり』が公開中の森岡龍さんにインタビュー。

 

◆映画に携わりたくて事務所に…何もわからないままオーディションへ

北海道で生まれて東京で育った森岡さんは、小さい頃から目立ちたがり屋で人前に出るのが好きだったという。高校生のときには漫才コンビを組み、「M-1グランプリ」に挑戦し、2回戦まで進んだ。

「漫画家になりたいとか、サッカー選手になりたいとか色々あったんですけど、途中で映画にハマっていって。窪塚洋介さんの『GO』(行定勲監督)という映画を観て映画に携わりたいと思うようになりました。

映画って、監督もいれば役者もいるし、カメラマンやスタッフもいる。どういう世界なのかわからないけど、とにかく、漠然と映画というものに惹かれて。15歳のときに麻生久美子さんがいらっしゃる『ブレス』という事務所が、映画制作もやっている会社だったので、『映画の世界に入りたい』という手紙を送ったんです。

それで、『手っ取り早く現場が見られるのは役者だよ。さっそくなんだけど、来週映画のオーディションがあるから受けてみない?』って言われて、何だかわからないけど行ったのが『茶の味』のオーディション。運良く受かったので、所属して役者としてやっていきましょうみたいな感じで」

-オーディションはどんな感じでした?-

「演技をするというよりは、『何かおもしろいことをやって』みたいなオーディションでしたね。当時僕は漫才をやっていたので、一人二役でボケとツッコミみたいなことをやったらおもしろがってくださって、『じゃあ合格』みたいな感じで(笑)。主人公の友だち役で呼んでいただきました。

その『茶の味』の現場がすごく楽しくて。大人が一生懸命遊んでいるというか、そこにいるカメラマンさんから、美術の方、助監督さん、役者さんも含めて、皆さんカッコ良かったし、すてきな大人たちで、こういう現場に少しでも携われたらいいなあって思いました」

-とくに印象に残っていることは何かありますか-

「僕は4人組の男の子たちの一人で、その中に松山ケンイチさんもいました。他の友人役の子が全然石井監督の映画を観てなかったんですが、僕は全部観ていたので、みんなでホテルの大浴場に入って頭を洗っていたときに、『石井克人ってこんなにすげえんだぜ』みたいなことを話していたら、どうやら後ろで頭を洗っていたのが石井監督だったみたいで(笑)。

それで気に入ってもらえたみたいで、次の『ナイスの森』という映画にも呼んでもらえたので、あのとき大声で話していて良かったなあって思いました(笑)」

-『茶の味』が公開されたときはいかがでした?-

「『茶の味』は渋谷シネマライズでかかったんですけど、僕が『GO』を観たときは、単館系と言われているミニシアターがブームだったので、デビュー作がその渋谷シネマライズでかかってエンドロールに自分の名前が出たときはすごい感動しましたね。やっぱりこういう世界で生きていきたいなって思いました」

※森岡龍プロフィル
1988年2月15日生まれ。東京都出身(北海道生まれ)。映画『ハッピーフライト』(矢口史靖監督)、『あぜ道のダンディ』(石井裕也監督)、『カルテット』(TBS系)、舞台『名人長二』などに出演。『東京・オブ・ザ・デッド-3日-』(山本政志監督)、『ろんぐ・ぐっどばい~探偵 古井栗之助~』(いまおかしんじ監督)など主演映画も多く、『地の塩 山室軍平』(東條政利監督)では、I WILL TELL INTERNATIONAL FILM FESTIVAL(イギリス)で最優秀主演男優賞を受賞。俳優としてさまざまな作品に参加する傍ら、映画監督としても活動。短編映画『北風だったり、太陽だったり』が公開中。半田健監督と共同監督を務めた短編映画『プレイヤーズ・トーク』の公開が2022年12月24日(土)に控えている。

 

◆死体役なのにイビキをかいて寝てしまい…

俳優デビューしてからは、学校帰りにオーディションを受けに行くという毎日。まるで部活みたいだったという。

「オーディションでもだいたい顔ぶれが決まってくるんですよね。『コイツがいるから負けるな』とか、『高良健吾が来ている』、『勝地涼がいる』とかね(笑)。高良くんとか勝地くんとは今も交流がありますけど、思春期の頃に同じ部活で対戦していたライバルみたいな感じで、独特の友情関係がある気がします。

『茶の味』の次に大きいオーディションで受かったのが『亡国のイージス』という映画で、勝地くんがわりとメインキャストで出ているんですけど、何百人も受けたオーディションで、なぜか受かったんですね。

阪本順治監督に何で僕が受かったのか聞いたことがあって。オーディションのときにブワーッと大人数が並んでいて、『みんな目を閉じて下を向いてください。泳げる人』って言われて、みんながバババッて手を上げる音が聞こえたんですよ。

海軍の話だから当然泳げなきゃいけないんです。僕はあまり泳ぎが得意じゃなかったんですけど、『やばい、落ちる』と思って、ゆっくり手を挙げたんですね。そうしたら、『死んだら一番かわいそうだったから君にした』って(笑)。だから演技どうこうじゃなくて、ラッキーという感じでしたね。

真田広之さんと共演させてもらって、死体役なので動いちゃいけないんですけど、当時はまだ演技のポテンシャルが全然ないから寝ちゃったんですよね、真田さんの前で。

僕は2等海士の菊政克美という役だったので、『菊政、本番行くぞ。寝ているな、コイツ。起きろー』って真田さんに言われて(笑)。しかも撮影は35ミリフィルムで、そうそうたるスタッフさんがいたんだけど、死体の役なのにイビキをかいて寝ちゃって(笑)。今思えば、本当に無知というか、怖いもの知らずというか…。

真田さんはめちゃくちゃいい人でしたけど、ヒヤッとしました。今だったら絶対に寝ないし、あり得ないことですから」

 

◆商業映画の監督を目指すが行き詰まり…心が折れたとき救いの言葉

2006年、18歳のときには、和製ゾンビホラー映画『東京・オブ・ザ・デッド-3日-』に主演。

「デビューして2、3年なのに主演で呼んでいただいて。自主映画界では知らない人がいないという山本政志監督だったんですけど、低予算映画ならではの、手作りな映画制作も知ることができて楽しかったです。監督の自宅とかでゾンビがウロウロしていたりするんですよ(笑)」

-いろいろな作品に出演されていて、2007年には『グミ・チョコレート・パイン』(ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)。これも、鬱々(うつうつ)とした少年で-

「そうですね。僕は、いわゆる学園ドラマみたいなルートにはあまり行けなかったんですね。ヤンキーものとか、同世代の役者さんを楽しそうだなあと思って見ていたんですけど、わりとサブカルというか、そういう匂いのする作品にお呼ばれすることが多かったですね、10代の頃は」

森岡さんは、俳優として多くの作品に参加する傍ら、自主映画の制作を開始。高校卒業後、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科に進み、本格的に映画製作のことを学びはじめることに。

大学在学中に「ぴあフィルムフェスティバル」に入選。卒業制作映画『ニュータウンの青春』が同映画祭でエンタテインメント賞(ホリプロ賞)を受賞。海外の映画祭に出品されたのち劇場公開された。

「美大に通っていたときは毎年、ぴあに出すのが目標だったんですよ。ぴあを目指して、毎年何か映画を作る。ぴあのためだけに生きているみたいな感じでしたね(笑)。

ぴあで賞を獲るとスカラシップという商業映画を撮るチャンスが与えられるんです。『ニュータウンの青春』で賞をいただいて、次はスカラシップだと思っていたんですけど、スランプみたいなものになっちゃったんですよ。

書けなくなっちゃったし、撮れなくなっちゃって…。その前に大学3年生のときに作った映画の出来があまり良くなくて、ちょっと鬱っぽくなっちゃって、大学を1年くらい休んだ時期もあって。それで『ニュータウンの青春』を作れたんですけど。

『ニュータウンの青春』を作って、自分は商業映画にそのまま行くものだと思っていたんですけど、なかなか映画の企画が実現しなくて。

商業映画のオファーもいただいたんですけど、それまで自分の身の回りにいる仲間たちで映画を作っていたのに、突然プロフェッショナルな俳優、『このアイドルの誰でいきますか?』みたいなことに戸惑っちゃって、単純についていけなかったんですよね。

その頃の精神性が商品としての映画を作るということに折り合いがつけられなくて、ボキッと折れちゃったんです。

それで、当時の事務所の社長に『やっぱり映画を作っていくのと二足の草鞋(わらじ)でいくと、俳優としての仕事がおろそかになっていくんじゃないか。そんなに映画作りに悩んでいるくらいだったら、何年とか期間を決めて役者に専念したらどうだ?』ってアドバイスをしていただいて。そのアドバイスが本当にすごく的確だったと思うんですよね。

それで、しばらく映画を作るのを捨てて、役者として精進(しょうじん)しようみたいな感じではじめたら、またいろんなお話をいただけるようになって。自分を役者だと名乗れるような自負と覚悟を持てたのは、やっぱり役者1本に絞った時期があるからだと思います」

-大きな役も色々されていて、2010年には『あぜ道のダンディ』(石井裕也監督)もありました。光石研さんの息子役で-

「そうですね。お父さん想いの息子役でした。あの時期は、石井裕也監督とのタッグがしばらく続きましたね。自分の俳優の1ページは、石井裕也監督との仕事が並んでいると思います。

同じ監督と立て続けにやっていくという感覚、チーム感も生まれているので、石井さんとの仕事はとにかく楽しかったです。あの当時、『川の底からこんにちは』、『君と歩こう』、『夢!イケメン大変身!』、『あぜ道のダンディ』、そして『舟を編む』に至るまでしばらく続きましたから。

やっぱり同じ監督にもう一度呼んでいただけるというのは役者冥利(みょうり)に尽きますね。ただ、石井さんとは『舟を編む』以降、実はもう10年くらい空いていたりするので。何かまたそれぞれ成長したところでタッグを組めたらおもしろいだろうなと思います」

2016年には、事故で相方を失った漫才師と残された者たちの再生を描いた映画『エミアビのはじまりとはじまり』に主演。相方役の前野朋哉さんと「M-1グランプリ」に挑戦したことも話題に。

次回はその撮影裏話、結婚、10年ぶりの監督作となった『北風だったり、太陽だったり』と公開間近の『プレイヤーズ・トーク』も紹介。(津島令子)