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<p>タピオカで飢えしのぎ…終戦直後、南方軍の苦境伝える陸軍大将・板垣征四郎の書簡確認 – ライブドアニュース</p><p>【貴重】タピオカで飢えしのぐ…終戦直後の南方軍の苦境伝える陸軍大将・板垣征四郎の書簡確認 書簡には、英国軍による管理下の制約の具体的な報告や、無人島に日本軍兵士が移される方針に加え、タピオカで食糧不足を補った実情などが記されている。</p><p>第2次世界大戦の終戦直後、東南アジア地域に残された70万人を超える日本軍将兵の苦境を伝える書簡が確認された。陸軍大将の板垣征四郎が、上官の元帥・寺内寿一(ひさいち)に送ったもので、終戦に伴い進駐した</p><p>第2次世界大戦の終戦直後、東南アジア地域に残された70万人を超える日本軍将兵の苦境を伝える書簡が確認された。 陸軍大将の板垣征四郎が、上官の元帥・寺内寿一(ひさいち)に送ったもので、終戦に伴い進駐した英国軍の管理下での詳細がわかる貴重な史料だ。 書簡は1945年9月7日付、同年10月12日付、46年2月26日付の3通。寺内の遺族が学習院大学史料館に寄贈した遺品の中に含まれており、皇学館大学の長谷川怜助教(日本近現代史)が確認した。いずれも、東南アジア地域を管轄する南方軍の配下にあった第7方面軍の司令官で、シンガポールやマレーシアにいた板垣から、ベトナムにいた南方軍総司令官の寺内に送付されていた。 当時、体調を崩していた寺内に代わり、板垣は東南アジア地域の日本軍の事実上のトップだった。終戦後、同地域には宗主国の一つだった英国軍が進駐、日本軍はその管理下に置かれた。 45年9月7日付の書簡には〈佩刀(はいとう)の件ハ努力ハ致候も保留の程度に留むる外なかりしこと〉とあり、降伏後も将校の軍刀の着用を求めるも拒絶されたことがわかる。同年10月12日付の書簡には〈一切の通貨の使用ハ厳禁せられ〉〈軍票並ニ円紙幣等一切ハ焼却〉と記すなど、管理下の制約を具体的に報告している。 南方の日本軍兵士の抑留・復員に詳しい平和祈念展示資料館の増田弘館長は「日本軍はある程度自主性を維持したいと考えていたが、自分たちの置かれた立場が予想以上に厳しいものであることを感じたのではないか」と指摘する。 また、同日付書簡には、インドネシアの無人島・レンパン島に日本軍兵士が移される方針に加え、〈糧食ハ先二ヶ月分を集積之予定〉〈タピオカ採取の許可を受け主食二八〇瓦(グラム)の不足分を幾分緩和〉など、タピオカで食糧不足を補った実情を記す。島で兵士たちは栄養失調で命を落とすなど飢餓に苦しんだ。 ただ、板垣は同日付書簡の最後に〈承詔必謹志気旺盛にて整然たる秩序団結〉と記すなど、組織の統率が維持されているとも伝えた。寺内はベトナムで終戦を迎えた後、マレーシアに移動し、46年6月に同地で病死した。長谷川助教は「現地の軍の状況や英軍との交渉を断片的ながらも、リアルタイムで把握することができる重要な史料だ」と話す。 等松春夫・防衛大学校教授(日本政治外交史)の話「終戦直後の東南アジアにおいて、主として英軍に降伏した日本軍将兵が直面していた状況が生々しく描かれている」 ◆板垣征四郎=1885~1948年。陸相や朝鮮軍司令官などを歴任した。A級戦犯として、極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられ、東条英機元首相らとともに絞首刑となった。 ◆寺内寿一=1879~1946年。大正時代に首相を務めた寺内正毅の長男。陸相などを歴任した後、南方軍の総司令官に就いた。</p>