モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1994年のル・マン24時間レースを戦った『サード・トヨタ94C-V』です。
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1994年、この年のル・マン24時間レースは転換点を迎えていた。前年まで総合優勝を争っていた3.5リッターNAエンジンを積む新規定グループCカーが姿を消し、新たに市販スポーツカーをベースとしたGTカーがル・マンの主役になろうとしていたのだ。
そんな過渡期といえる年だったから、レギュレーションには“抜け穴”も存在していた。それを存分に利用した“GTカー”、この連載でも以前紹介したダウアー・ポルシェ962LMという、ほぼグループCカーそのままのマシンが、結果としてこの年のル・マンを制覇することになったのだ。
同時に、この年のル・マンには、LMP1/C90という1990年までの旧規定グループCカーが、性能調整を課せられて出場できるクラスがプライベーター向けに設けられていた。
そこにエントリーしたのが日本のサードであった。サードは、前年もル・マンを戦った93C-Vを1994年の規定に向けて改良。そうして生まれたのが、今回紹介する『サード・トヨタ94C-V』だった。
この年のル・マンに出場する旧規定Cカーには、さまざまな性能調整が課せられた。まず最低重量が前年より50kgアップの950kgに(それでもダウアー・ポルシェの属するLM GT1よりは最低重量は50kg軽かった)。
またエンジンのエアリストリクター径もさらに制限され、1993年時より100馬力程度パワーダウン。さらにスキッドブロックの装着が義務付けられて、ダウンフォース量が減少したほか、燃料タンク容量はGT1の120リッターから40リッター少ない80リッターとなるなど、この年のグループCカーは大幅にポテンシャルダウンしていたのだ。
実際、予選ラップタイムもターボCカー最盛期より20秒以上遅くなり、性能をGTカーに近づけられていたのだ。
そしていよいよ迎えたル・マン本戦では下馬評通り、2台がエントリーしていたダウアー・ポルシェ勢と、サードに加えてトラストからもエントリーしていたトヨタ94C-Vの2台によるトップを争うという様相でレースは展開していった。
レース序盤こそ、ダウアー・ポルシェが燃料タンク容量の大きさを活かしたスティント周回数の長さでレースをリードしていた。しかし、94C-V勢も規定で装着できたワイドリヤタイヤの利で、1セットのタイヤで2スティントを走行。ピットでのロスタイムを削減するかたちでダウアー・ポルシェに応戦した。
その後、ダウアー・ポルシェ勢にタイヤバーストやドライブシャフトのトラブルなどが発生して2台とも後退。その後トラストの94C-Vもギヤボックストラブルで順位を落とすと、サードが単独で首位の座を確実なものとしていった。
だが、フィニッシュまで残りおよそ1時間半というところでサードに悲劇が襲う。シフトリンケージのトラブルでホームストレートの先でストップしてしまったのだ。
ここでマシンをドライブしていたジェフ・クロスノフが、とっさにマシン後方からリンケージを操作し、3速にギヤを入れ、再発進しピットイン。リンケージ交換を行ったが、総合3位へとダウンしてしまったのだ。
このピットでクロスノフからバトンを受けたアンカーのエディ・アーバインは激走を見せる。3速ギヤは使えなくなってしまったが、2、4、5速だけを使って追い上げ、ラストラップに向かう最終フォードシケインでダウアー・ポルシェの1台を攻略。最終的には総合2位でチェッカーを受けたのだった。
一度は夢見られたマツダ787B以来3年ぶり二度目の日本車によるル・マン制覇。しかし結果は、2年ぶり二度目の総合2位。
2年前よりもはるかに勝利に近づいた2位だったが、この後、トヨタはル・マンで長くこの“2位の呪縛”に囚われることになってしまう。そしてこの呪縛から解き放たれるのは、24年後、2018年まで待たなければならなかった。