2007年、オーディションで映画『パッチギ!LOVE&PEACE』(井筒和幸監督)のヒロイン役に抜てきされ、「第3回 おおさかシネマフェスティバル新人賞」、「全国映連賞女優賞」を受賞した中村ゆりさん。
透明感溢れる端正なルックスとスレンダーなプロポーションで注目を集め、連続テレビ小説『梅ちゃん先生』(NHK)、『クロサギ』(TBS系)、映画『窓辺にて』(今泉力哉監督)など多くのドラマ、映画、舞台、CMに出演。映画『嘘八百 なにわ夢の陣』(武正晴監督)が2023年1月6日(金)に公開されたばかりの中村ゆりさんにインタビュー。
◆14歳でオーディションに合格、アイドルデュオとしてデビュー
大阪で生まれ育った中村さんは、小さい頃は家で絵を描いたり、塗り絵をするのが好きな子どもだったという。
-芸能界に入るきっかけは?-
「うちは母子家庭なので、経済的に母を助けてあげたいという気持ちが強かったです。私は勉強が苦手だったので、こんな私でも何かできる仕事があるかなあって具体的に考えたときに、芸能界だったらチャレンジできるかもしれないかなって。
街を歩いていてスカウトされたこともあって、そのときは深く考えませんでしたが、徐々に『自分にも可能性があるのかな?』と思うようになり、当時話題になっていた『ASAYAN』(テレビ東京系)を受けることにしました。
『ASAYAN』は、書類を送るとかではなくて、その場に行けば受けられたので、結構同級生も気軽に何人か受けに行っていたんですよね。
二次オーディションを通過して、初めて母と東京に来たときに、当時は原宿の竹下通りでスカウトされるという話をよく聞いていたので、『せっかくだから、ちょっと歩いてみる?』って行ってみたら、結構スカウトされたので、母も私もちょっとその気になる、みたいな(笑)」
-受かったと聞いたときはいかがでした?-
「展開がものすごく早くて、中学を卒業したら上京することになったので、正直すごい不安でした。まだ子どもだったので、親もとを離れるのも寂しいし…」
-まだ14歳だったわけですものね-
「はい。でも、一番気合が入っていた時期かもしれないです。そういうきっかけが掴めたというのが自分の中ではすごく大きかったので、『どうにか頑張らなきゃ。絶対に大阪へは帰らない』くらいの気持ちでいました」
1998年、中村さんは友人の伊澤真理さんとアイドルデュオ・YURIMARIとしてデビューすることに。翌年解散するまでにシングル6枚とアルバム1枚を発表する。
-デビューされてからはいかがでした?-
「自分が本当にやりたいことかどうかもまだ子どもだからわかっていないし、将来の仕事のため、みたいな感じではじめちゃったので、自分自身とのギャップも感じていたし、正直アイドル時代は苦しかったです。キャラ作りに無理をしていたというか…。
とにかく忙しくて、何が何だかよくわからなかったです。与えられたことをとにかく乗り切るだけで、生意気だったところもあると思います。でも周りの大人がすごく温かく、厳しくも守ってくれて、当時の絆は強くて、いまだにYURIMARIのグループLINEがあるんですね。
女優になってからも、YURIMARIのチームの人たちが応援してくださいました。自分が上京して最初に出会った大人たちがあの人たちで良かったなあって、今もすごい感謝しています」
※中村ゆりプロフィル
大阪府出身。2003年、映画『偶然にも最悪な少年』(グ・スーヨン監督)で女優活動スタート。映画『天国からのラブレター』(山口円監督)、『そして父になる』(是枝裕和監督)、『ディアーディアー』(菊地健雄監督)、『Fukushima 50』(若松節朗監督)、『母性』(廣木隆一監督)、ドラマ『最も遠い銀河』(テレビ朝日系)、連続テレビ小説『わろてんか』(NHK)、『平成細雪』(NHK)、『弟の夫』(NHK)、『天国と地獄~サイコな2人~』(TBS系)、連続テレビ小説『エール』(NHK)、『今夜はコの字で』(BSテレ東)、『ただ離婚してないだけ』(テレビ東京系)、『SUPER RICH』(フジテレビ系)、舞台『焼肉ドラゴン』、『1945』、『常陸坊海尊』、『広島ジャンゴ2022』。映画『嘘八百 なにわ夢の陣』が公開中。2023年2月3日(金)に『仕掛人・藤枝梅安』(河毛俊作監督)の公開、舞台『歌うシャイロック』への出演が控えている。
◆18歳で芸能活動休止。バイトでは年下の先輩に怒られてばかり
1999年、YURIMARIが解散。中村さんは、芸能活動を休業し、初めてアルバイトをすることに。
「芸能界のことしか知らないというのは、少し怖い気がしたので、他の世界も知らなきゃダメだと思ったんですよね。
解散してすぐに2カ月間、一人でニューヨークに行って、ブロードウェイやオフブロードウェイのお芝居をいろいろ観たり、美術館に行ったり。日本に帰ってきた時点で母も東京に呼んで一緒に暮らすようになったので、そこからアルバイトもはじめました」
-どんなアルバイトをされたのですか?-
「カフェみたいなハンバーガーショップです。そこで、私は社会に出てもこんなにできない人なんだというのを思い知らされました。何もできないんです。レジ打ちもすごい失敗するし、私がレジ打ちをした日の計算は、ほぼ合わないみたいな感じで。計算がとても苦手で、18歳のときでしたけど、16歳のバイトの子にいつも怒られていました(笑)。
社会に出て働くということは、アルバイトだけれども大変なことなんだということがよくわかりました。お金を稼ぐことの切実さもとても感じました。その経験は本当にして良かったと思います」
-再び芸能界でということになったのは?-
「次にやるときは、人に決められたものじゃなくて自分で決めようと思っていたんですけど、どの道に行ったらいいか全然わからなかったんです。そんなときにたまたま映画のプロデューサーの女性と知り合う機会があって。
お茶をしたりして仲良くなったときに、『映画のオーディションに来てみなよ』って言われて受けてみたのが『偶然にも最悪な少年』という映画のオーディションで、運良く受かったんです。
1シーンとか2シーンだったんですけど、初めて自分が出ている作品の初号(試写)を観に行ったときに、自分がどうこうよりも、すてきな映画に参加して、それが出来上がって観るということにすごい感動したんですね。
それまでやったどの仕事より充実感があって、『この仕事だったら必死になるかもなあ』って思ったら、やっぱり必死になりました」
ニューヨークに滞在中もブロードウェイやオフブロードウェイで舞台を観ていたという中村さん。芸能界休業中も舞台や映画を欠かさず観ていたという。
「昔、ベニサン・ピットという劇場があって、そこで観たお芝居が芸術的な世界観があり、『演劇って、俳優さんって、こんなにカッコいいんだ』って感じたんですね。素直にすごく惹かれました、俳優業というのに」
◆井筒和幸監督から厳しい指導。女優としての根性がついた
2007年、中村さんは転機となる映画『パッチギ!LOVE&PEACE』のヒロイン役に。
この映画は、2005年に公開されてヒットした映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)の続編的作品で、舞台は前作から5年後。難病を抱えた息子に治療を受けさせるため、京都から上京したアンソン一家の奮闘する姿を描いたもの。中村さんは、ヒロインのキョンジャを演じた。
「知り合いから『今、パッチギ2のオーディションをやっているらしいよ』って聞いて、『私も行きたい』って事務所に言って行かせてもらいました。
というのは、前作の『パッチギ!』を観たときに、『自分のアイデンティティーとか、ルーツに近いのに、そういう作品に何で私がいないの?』って思ったんですよね。それでオーディションを受けることにしました」
-自信はありました?-
「自信よりも、多分すごい切実な気持ちが伝わったのかなあとは思います。オーディションのときに『前作を観てどう思った?』って聞かれたので、『ムカつきましたね』って答えたんですね(笑)。『何で私がここに参加してないの?』って悔しくなったし、そういうところをすごくいいと思ってくださったみたいです。
しかも、初めてオーディションで、監督やプロデューサーさんから自分の生い立ちとか聞かれたんですね。
それまでのオーディションでは、おもしろいことを言ったり、可愛く思ってもらって印象を残さなきゃ、みたいな感じだったんですけど、初めて自分の中身にすごく触れてくれた感じで。
自分が負だと思っていることも、この方々は魅力として捉(とら)えてくださる、初めてそういう気持ちになりました。女優さんというのは、自分の負の面だったりとか、そういうものも生かせる仕事なんだなあって思ったのも、この仕事にすごく惹かれた一つではありました」
-撮影はいかがでした?-
「当時はまだお芝居の経験もあまりない状態でヘタクソだし、テクニカルなものも何もない状態で臨んでいたので、監督にずっと怒られていました。
それでも監督が『ここは絶対お前のほうが、キョンジャの気持ちがわかってるやろ?だから好きにやれ』って任せてくれる部分もいくつかあって、そういう意味では、やっぱり私じゃないとわからない彼女の気持ちというのはあったのかなとは思います」
-前作が結構話題になってヒットしたということでプレッシャーは?-
「ありました。気にしないようにしていたけど、少なからず。役も同じ役を引き継ぐわけだから、それに対してプレッシャーはありましたね。
でも、そんなことよりも、とにかく必死でした。毎日電車で通っていたんですけど、行きの電車で『今日はどうかいいお芝居ができますように』って、本当に祈りながら行くんですよ。そうじゃないと、もうメッタメタにされるのがわかっているので(笑)。
でも、やっぱり目の前でへし折られていく役者さんを見ていて、途中からはもう心が折れたらすべてがダメだと思ったので、監督の話を右から左に流すようになったんですね。そうしたら監督が『お前、根性ついてきたな』って(笑)。
先輩の役者さんたちが、『今どきこんなに厳しく指導してもらえる現場なんて僕たちからしたらすごくうらやましい。すごくラッキーなことだよ。だから、絶対に食らいついて、最後までたくさん学びなさい』っておっしゃってくださったから、本当にそう信じて。
もともと私は、井筒さんの映画がすごく好きだったので、『絶対に負けない!』って自分に言い聞かせてやっていました」
-井筒監督は厳しいことで知られていますが、優しい言葉をかけられたりは?-
「たくさんありました。家族のことを気遣ってくださったりとか。ぶっきらぼうな方だから、『お前、あそこは不細工な顔していたからカットしておいたぞ』とか言ってくるんですけど(笑)。厳しいのは、役者をよく映してあげようとしてやってらっしゃるから。井筒さんの映画って、役者さんがみんなすてきに映るじゃないですか。
あとは、女優として…みたいなこともすごく教えていただきました。監督の中でのかっこいい女優像みたいなのがあるので。女優とはどうあるべきかということは、井筒さんだけじゃなく、周りの皆さんにも教えていただきました」
-可憐な女性が映画の世界に入って変わっていく様がすごく良く描かれていましたが、ご自身ではご覧になっていかがでした?-
「初号(試写)を観たときは、自分があんなにたくさん出ている映画を観るのは初めてだったし、思っていたよりもできてなさすぎてショックだったんですね。『ごめんなさい』みたいな気持ちになって。でも、数年後に観返してみたら、芝居をしようとしていない魅力というか、『意外といいな』って思いました(笑)」
この映画で賞も受賞して注目を集め、広く知られることになった中村さんは、ドラマ、映画、舞台などに次々と出演することに。2019年には、日本生命のCM「笑顔が大好き篇」も話題に。
2020年には『今夜はコの字で』でドラマ初主演を果たし、2022年にシーズン2も放送。途切れることなく出演作が続いている売れっ子に。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
ヘアメイク:藤田響子
スタイリスト:道券芳恵