この連載は全6回です。
このほかのラインアップは次の通りです。
第1回 ドーハの悲劇、お守りに託した思い ゴール下に埋めた祈り
第2回 中傷に手染めた「選挙広報のプロ」 炎上対策指南役が加害者に
第3回 つながりたいのにつながらない? 相談ダイヤルの向こう側
謝罪の言葉なき「和解の場」
8年ぶりに対面した彼女の表情は市長時代の重責から解き放たれたせいか、穏やかになっていた。2014年、当時の晋三政権は「観光立国」戦略の目玉として、カジノを含む統合型リゾート(IR)を打ち出した。その有力候補地・横浜で3期12年にわたり市長を務め、誘致を推進したのが林文子氏(76)だった。しかし21年夏の市長選で敗れ、計画は立ち消えになる。彼女はなぜそこまで誘致にこだわったのか。かつて横浜市政担当だった記者が取材を重ねると、政権中枢とのせめぎ合いが垣間見えた。
22年のゴールデンウイークのさなか、東京・赤坂の高級レストランで、林氏は一人の男性と向き合っていた。
「林さんをどうしてもご招待したくて」。目の前に座るのは、菅義偉前首相(74)。横浜を選挙区とする菅氏との縁は市長1期目の途中からで、折に触れて連絡を取り合う仲だった。IR推進でも一致し、ともに誘致に奔走してきた。
だが、林氏が4期目を目指した市長選で、菅氏は一転、国家公安委員長の職を辞して立候補し「IR誘致取りやめ」を訴える小此木八郎氏(57)の支援に回った。結局、過去最多8人が出馬した混戦を制したのは、IR誘致撤回を掲げた別の候補だった。
林氏が菅氏と直接言葉を交わしたのはこの選挙の前以来、約10カ月ぶり。市長時代の思い出話に花を咲かせたものの、市長選でたもとを分かつきっかけとなったIRが話題に上ることはなかった。そして、謝罪の言葉も聞かれなかった。
だが、林氏はこの会食をこう受け止めている。和解の場であった、と。
◇
林氏はダイエー会長兼最高経営責任者(CEO)などを経て09年8月に初当選した。1期目に「待機児童ゼロ」を達成して注目を集める。2期目の14年には、定例記者会見でIR誘致に前向きな発言をしていた。
記者が市政を担当したのは、その直後から1年間だった。「観光、文化、芸術は横浜を活性化させる重要な産業になるの」。林氏の街づくりは、当初から一貫していた。
横浜観光は日帰りが多く宿泊客が伸び悩んだため、客船を呼び込む「港湾都市」ビジョンをよく語っていた。「夜の横浜の魅力が広まれば国内外の宿泊客が増える」。その視線の先にあったのがIRだった。
市特有の税収構造も悩みの種だった。みなとみらい地区など華やかなイメージが強いが、上場企業数が少なく、法人市民税収は東京23区の十数分の1。税収の4割は個人市民税だった。都市間競争への熱意が印象に残った。
「IRが選択肢の一つになったのは自然な流れだった」。当時の市幹部は振り返る。IR実施法が成立した18年、主なターゲットの訪日外国人客は3000万人を突破。自治体の誘致合戦は熱を帯び、横浜市も19年に誘致を表明した。林氏は「丁寧に説明する」と自ら住民説明会に臨んだ。
住民の理解が十分に得られない中、さらに新型コロナウイルス禍が追い打ちをかけた。海外のIRが一時閉鎖を余儀なくされ、20年5月には横浜への参入意欲を示していたIR業界大手の米ラスベガス・サンズが撤退する。日に日に市民の反発が強まっても、誘致姿勢を崩さなかった。
市の事業に関してよく数値目標を掲げて経済合理性を重視していたはずの林氏が、米事業者が撤退した時点でいったん立ち止まる道をなぜ模索しなかったのか。その頃、福岡に赴任していた記者は首をひねるばかりだった。
落選から1年以上たち、旧知の市幹部に話を聞くと、「やりきれない思いは今もあるはず」と言う。22年10月、記者がスマートフォンからショートメールを送ると、電話が鳴った。「久しぶりね。あなたのことは覚えてるわ」
◇
取材に応じることに葛藤があったのだろうか。その後、連絡が一時途絶えたが、記者が手紙をしたためた末…(以下有料版で, 残り1158文字)
毎日新聞 2023/1/5 07:00(最終更新 1/5 07:00) 有料記事 2944文字
https://mainichi.jp/articles/20230104/k00/00m/040/217000c
引用元: ・林前横浜市長、IR巡り初めて明かした菅前首相への「直訴」 [蚤の市★]
もうちょっと分かりやすく書けよ、無能新聞屋
菅は前
この違いはなんなのか
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