モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権を戦った『フェラーリF40』です。
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日本ではバブル経済期であったことも追い風となって、かつてもっとも知名度のあるフェラーリといっても過言ではないのが、『フェラーリF40』だ。このフェラーリF40が、ル・マン24時間レースやBPRグローバルGTシリーズなど、いわゆるGT1期のスポーツカーレースに参戦していたことは以前、この連載でもお伝えした。
そんなフェラーリF40は、ル・マン24時間やBPR GTのみならず、全日本GT選手権(JGTC)へもシリーズ創設当初にエントリーしていたことがある。JGTCへフェラーリF40を持ち込んだのは、同時期にポルシェ962Cも走らせていた千葉泰常代表率いるチーム・タイサンであった。
タイサンの千葉代表は1993年にイタリアで始まったGT選手権において、チャンピオンを獲得していたことや、フェラーリF40自体を所有していたことから、1994年より本格スタートするJGTCへフェラーリF40でも参戦することを決意した。
GTを走ったフェラーリF40は、まずノーマル車両をベースにレース仕様へと仕立てられていった。といっても富士スピードウェイで開催された1994年の開幕戦を走った車両は、サスペンションが完全ノーマルで、トランスミッションも同様であるなど、ほぼ市販状態でレースを戦うことを余儀なくされていた。
エンジンこそノーマルでも十分なパワーを発揮するユニットだったが、コーナリング性能は国産勢に劣り、トランスミッションはレース途中で3、4速が使えなくなるトラブルが発生。トランスミッションに関しては、フェラーリ本社から「150kmしか持たない」と事前に言われていたとされるが、それでもなんとか無事にチェッカーフラッグを受けたのだった。
このように開幕戦の富士では戦える状態ではなかったが、仙台ハイランドでの第2戦では足まわりのフルピロボール化を敢行。さらに第3戦富士ではフェラーリF40専用のタイヤが供給されるようになった。
スポーツランドSUGOが舞台の第4戦では、フェラーリF40 LMが装着しているような大型のリヤウイングのほか、フロントバンパーにディフレクターを装着し、フロントアンダーパネル形状も改良するなど、空力面でのモディファイも重ねていった。
その結果、ダウンフォースが大幅に増加してコーナリングスピードが上昇。このSUGO戦ではポールポジションを獲得するまでに進化していた。
MINEサーキットでの最終戦では、これまで参戦してきたフェラーリF40に加えて、1993年のイタリアGT選手権でチャンピオンとなったマシンそのものであるフェラーリF40をも導入。さらにチャンピオンドライバーであるオスカー・ララウリも招聘して、必勝体制で挑んだ。
これはタイサンのメインスポンサーだった三洋信販が、同ラウンドの冠スポンサーを務めていたため「それならば必ず勝利を」という千葉代表の思いから実現したものであった。
そして、その“必勝体制”が功を奏し、ポールポジションこそ逃したものの、決勝では太田哲也とララウリのドライブするフェラーリF40が見事勝利をマークする。
翌1995年もフェラーリF40はJGTCへと引き続き挑んだが、レギュレーションの変更や徐々に自動車メーカーの活動が本格化したことにより、劣勢となっていき、1996年、2戦にエントリーしたのを最後にJGTCのグリッドから姿を消すこととなった。
結果的には初年度に1勝をマークすることしかできなかったが、その存在感を含め、初期JGTCに欠かせぬ立役者だったのが、このフェラーリF40だった。