ニック・デ・フリースは、2022年シーズンのF1イタリアGPの後、多くの人から連絡を受け様々なことを要求されたため、そういったことから自分自身を守るためにもマネージャーを雇ったと、当時の状況の変化について語った。
オランダ人ドライバーのデ・フリースは、2019年のFIA F2選手権を制し、F1への昇格が確定したように見えた。しかしフルタイムのレースシートを求めると、そこへ至る扉は閉ざされていた。デ・フリースはメルセデスから参戦した2021年のフォーミュラE世界選手権でチャンピオンになっても機会に恵まれず、グランプリのグリッドに立つチャンスを得ることはできないように思われた。
「正直なところ、実現するだろうというよりも、絶対に無理だと思っていた時の方が多かった」とデ・フリースは、YouTubeチャンネル『Day1』のホストのジェイ・ジェイ・ボスケに語った。
「『もう実現することはないんだ』と考える日々だった。でも心の底ではいつも何らかの信念を持ち続けていた。2021年から4回も断られてきたのにね」
「F2でタイトルを獲った後、F1には僕の居場所がなかった。それはある意味拒絶されたということだ。2021年にはフォーミュラE選手権でチャンピオンになった。あともう少しのところまでいったけれど、結局うまくいかなかった」
「不満は感じていなかった。なぜなら同時に自分の持っているものと得られたチャンスにとても満足していたからだ」
「でも一方で僕は常にF1のレースウイークに姿を見せていた。そうすると自分がF1でドライブしていないことに直面することになる。すごく近づいていると同時に、はるかに離れてもいるんだ」
「昨シーズンは僕の将来についての真剣な話し合いが2、3回行われた。その度に答えを出さなければならなかった」とデ・フリースは説明し、彼が他に負っていた義務があったために、答えはいつもノーだったと明かした。
シーズンを通じてデ・フリースはウイリアムズ、メルセデス、アストンマーティンで数多くのフリー走行を担当したが、フルタイムでF1でレースをするという目標の達成には近づけていないように思えた。そしてモンツァでのことが起きた。ウイリアムズのオフィスに呼ばれ、デ・フリースがイタリアGPで走行することになると言われたのは、FP1を走り終えたばかりの時だった。レギュラードライバーのアレクサンダー・アルボンが虫垂炎で入院したためだ。
デ・フリースは予選で13番グリッドを獲得し、翌日の初レースを得点圏内でフィニッシュした。突如として、それまで彼との契約に興味を示してこなかったチームが、彼のところへ押し寄せた。
「一部の人たちがどれだけ厚かましいか、驚くほどだ」と今週デ・フリースはオランダの新聞『De Telegraaf』に語った。
「長いこと連絡を取っていなかったり、僕の一番のサポーターというわけではなかった人たちが、また連絡をしてくるんだ!」
「モンツァでのレースの後、突然いろいろな人がやってきて、僕に何かを求めてきた。そうした人たちから自分を守らなければならなかった」
当時、デ・フリースはマネジメントを自身で行っていた。結局彼は2023年に向けアルファタウリと契約し、角田裕毅と組むことになる。それ以来、デ・フリースはマネージャーとしてギヨーム・ル・ゴフと契約し、急激に上昇する名声から身を守るようになった。
「信頼し、頼りにできる人たちが周りに必要だ。たとえばギヨームとは10年以上の付き合いなんだ」と、この数カ月で自身の周りに作り上げたチームについて尋ねられたデ・フリースは語った。
「僕の姉妹がマーチャンダイズやウェブショップなどを担当する予定だ。舞台裏では僕の父もいろいろと面倒をみてくれているんだ」
デ・フリースはすでに実力が証明されたモーターレースの世界チャンピオンだが、2023年は完全に新しい挑戦となることを認識している。
「F1での最初の年になる。テレビでの発言によってではなく、(コースでの)パフォーマンスによって尊敬を集めたいと思う」
「僕自身は前と同じ人間のままだ。その点では何も変わらない。自分が外部からどう見られているかも気にしていない」
デ・フリースはアルファタウリでピエール・ガスリーの後任になる。アルファタウリは2022年に苦戦し、2021年には6位だったコンストラクターズ選手権で、2022年は下から2番目の9位にまで順位を落とした。チーム代表のフランツ・トストは、ステアリングを握る新たな血が、不振を一掃するための力となってくれることを望んでいる。
「彼は速い。彼が何を成し遂げてきたかはわかっている」とトストはデ・フリースについて語った。
「私は彼が2011年か2012年にカートで走るところを見ている。彼はその時からすでに大きな成功を収めていた。実際、彼は参戦したフォーミュラ・ルノー、GP3、F2、フォーミュラEのすべてのカテゴリーで世界チャンピオンになっている」
トストは、デ・フリースがモンツァでスーパーサブとして活躍したことが、彼との契約の決め手となったことを認めた。
「このことは彼の真のポテンシャルを示すこととして、非常に大きな影響力があった。彼は素晴らしいレースをし、ひとつのミスも犯さなかった。彼を選ぶのは簡単なことだった」