何としても2022年のうちにこの現場に立ちたかった。前日夜に大阪に入り、夜明けと共に一路奈良へ。大阪から電車を乗り継いで約50分、大和西大寺駅前に降り立った。言わずもがな憲政史上最長の8年8か月、宰相を務めた安倍晋三氏「終焉」の地だ。
大晦日の早朝とあって人通りはまばらだが、手を合わせ、スマホで撮影して故人を偲ぶ人たちもいた。私も合掌し、心よりの哀悼を捧げた。
今年はロシアのウクライナ侵攻により、世界情勢のゲームが劇的に変貌した。ただ、日本にとっては相変わらず戦争は「遠い国の出来事」。開戦当初こそ往年の湾岸戦争や米同時テロ並みに関心を集めたものの、戦闘が長期化するに連れ、夏を迎える頃には報道もいつしか「日常」化しつつあった。
だが、安倍氏の暗殺事件が起きた7月8日をもって、日本も戦後70余年続いてきたのとは異なる世界線に足を踏み入れたことを思い知らされた。暴力団等の抗争を除くと、銃による殺人事件がほとんどない国で、戦後初めての首相経験者の暗殺に銃が使われたのだ。
いざ現場に来てみると不意に怒りが湧いてきた。「不意に」というのは、私は必ずしも安倍政権の政策については支持していたわけではないからだ。
自由で開かれたインド太平洋構想や集団的自衛権の一部容認といった外交・安全保障は極めて高く評価していたが、異次元の金融緩和はあまりにも長くやりすぎたと思うし、規制改革については労働市場改革をはじめとする「本丸」に至らず大いに不満だった。
ふと湧いた現場での3つの怒り
しかし、それでも怒るのはなぜか。少し間を置いて考えるにその根源は3つある。
まずはテロを引き起こした実行犯への怒りだ。マスコミは事件について「暗殺」「テロ」という政治性のある言葉を忌避するように「銃撃」と矮小化したが、旧統一教会への憂さ晴らしという家庭事情が動機であったとすれば、なおさら安倍氏の政治的影響力を逆手に取った「テロ」であることに違いはない。安倍氏が、祖父の岸信介元首相の時代からの、旧統一教会との「因縁」があったにせよ、逆恨みも甚だしい。
2つ目は奈良県警の大失態だ。現場を訪れてみて改めて実感するが、実行犯の侵入を許したバス停からの経路を塞ぐ措置を全くとっていなかったことは度し難い。警察庁の検証結果を見ても数々の失態が認められている。本部長と警備部参事官は辞任したが、その後世の中の関心が旧統一教会の方にほぼシフトしてしまい、組織全体としての自省や、実効性のある警護立て直しへの緊張感を緩ませてはならない。
3つ目は旧統一教会の問題ばかりを照射するマスコミと安易に乗っかる社会への怒りだ。念のため前提を書くが、数々の霊感商法で問題を起こし、北朝鮮とも関係の深い旧統一教会が公然と社会的・政治的な活動をしていることに疑問は尽きない。清和会(安倍派)をはじめとする自民党議員たちが、反共育成が必要だった冷戦時代の残滓を今も清算できずにいたことにも不満はある。
しかし、それはそれとして、事件の真相解明がなおざりにされてきたことには暗澹たる思いだ。旧統一教会に親が搾取されたことへの恨みがあるのは事実にせよ、安倍氏殺害に至るには飛躍がある。自衛隊経験があるといっても銃を自作するノウハウはどう身につけたのか。今のところ「ローンウルフ」との見方がされているが、交友関係を全て洗い切れたのか。台湾情勢が緊迫する中、安倍氏が訪台を計画していたことと全く関係はないのか。2発撃たれたのに銃弾の1発はどこへ行ったのか……。
謎はまだ残る。それは陰謀論で言うのではない。陰謀論や奇妙な神格化を排する意味でも、冷静に本質を問うことが必要なのだ。しかしマスコミは「党派性の病理」にすぐに侵されてしまい、30年も放置していた旧統一教会ネタに終始している。
今年も党派性の病理に明け暮れた
「党派性の病理」は歳末のネットを騒がすColabo問題も同様だ。Colaboの女性代表者は女性の貧困支援だけでなく沖縄の反基地運動に参加するなど、左派メディアにとっては格好のヒロインになっていた。だから彼女の名誉毀損訴訟は積極的に取り上げるが、Colaboの問題点や疑問点を追及する動きには頰被りする(関連記事)。
東京都では2016年以降、住民監査請求された111件のうち、認められたのは前知事の公用車の利用法についての1件だけ。そうした中で請求が新たに認められたとなれば重大事のはずだが、大手メディアの報道が全くないどころか、事実確認で動いている形跡すらほとんど感じられない現実は、党派性の病理に蝕まれ、問題解決の周縁で右往左往するばかりという、平成から繰り返されてきた悪しき「ルーティン」の発動に私ならずとも絶望的な思いをする人は少なくない。
ただし、一つだけ光があるとすれば、「党派性」はガソリンのような局面を変える破壊力はある。もちろん、それは持続性に欠き、特定のイシューにしか関心を示さないなどのきらいはある。しかしColabo問題を機に新年から始まる増税ラッシュにノーを突きつける現役世代の政治意識・社会意識に火をつける可能性が、ほんのわずかでも見えたようにも感じる。
日本はアメリカと異なり、左派も右派も「大きな政府志向」が圧倒的多数だった。だが減税と民間活力(歳出削減)を重視する「小さな政府」論を本気で実践する勢力は極めて少数派にとどまっていた。江戸時代の「五公五民」を上回る令和の増税時代にあって、来年は風穴を開ける年になるのか。またもネットの一騒動に終わるのか。絶望の泥の中に咲く、美しい希望の蓮を見出すような思いで東京への帰途につく年の瀬となった。
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2023年は少しでも良い年でありますように。皆さまのご多幸をお祈りします。